自分らしく暮らし、経済的にも自立したい!
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生後6カ月の頃、脊髄性筋萎縮症(SMA)と診断を受ける。当初はI型SMAと認識していたが、10年ほど前の組織採取でII型SMAと判明。OriHimeパイロットとして4年働き、現在はパイロット全体に関わる資料の作成や新人教育などに携わり、業務の幅を広げている。一方で、インテリアやガーデニング、ファッション、旅行など趣味も多数。今は、大好きなカフェオレをよりおいしく飲むために、コーヒーを豆から挽いて自分でドリップできるようなプログラミングに挑戦したいと思案中。
私が初めてお仕事……のようなものを始めたのは、脊髄性筋萎縮症(以下、SMA)の専門病棟に入院していた頃でした。今でこそヘルパーさんに介助していただきながら一人暮らしをして、在宅で仕事もできていますが、実は11歳から23歳までの10年以上にわたり、長い入院生活をしていたんです。
入院したばかりの時はまだ子どもで、家族に週1、2回しか会えず、病棟には同世代の患者さん、特に女性が少なくて……。毎日孤独を感じていました。
それでも、長い入院生活の中で気の合う仲間もできたり看護師さんとも楽しくお話できたりするようになっていきました。中でも私の入院生活に大きな変化をもたらしたのが、20歳くらいの時に世の中に普及し始めた、パソコンやインターネットです。
以来、それらは私にとって相棒そのもの。病院のベッドの上でイラスト入りの年賀状や名刺を作ったり、知り合いの伝手でチラシなどの作成を頼まれるようになったり、そんなことが私にとっての初仕事でした。それを機に「働く」ということへの興味やあこがれが膨らんでいきました。
もともと入院していた時から、「いつか自立して生活したい」と考えていました。それは退院後もずっと変わらず、30代前半で思い切って一人暮らしを始めることにしました。私にとって人生の大きな決断でしたね。そして、さらなる次の目標として掲げたのが、「経済的な自立」です。
それから数年間、毎日のようにインターネットでお仕事を探していて、在宅でパソコンを使ってできる地域の広報誌の編集作業に携わることはできたものの、「もっともっと働きたい」という気持ちがありました。ですが、フルタイムでは働けない重度障害となるとなかなか見つからず……。それでも諦めずインターネットで探し続けて、SNSで見つけたのが、オリィ研究所の分身ロボットを使ったお仕事でした。
実はOriHimeのことを全く知らなくて、一度応募を迷っていたら締め切られてしまって後悔したんです・・・なので「次の募集が出たらすぐに応募しよう!これに賭けてみよう!」とすぐに応募しました。無事パイロットになることができて、最初は分身ロボットカフェでの接客からスタート。終始緊張しっぱなしでしたが、回を重ねるうちにお客さまとの会話も自然と楽しめるようになっていきました。
あれから早4年。今はカフェの接客業務からは離れ、オリィ研究所で資料作成やリサーチ業務、などを担当しています。
こうして4年間働き続けられた結果、昨夏、念願だった「経済的自立」、つまり生活保護を抜けて、自分のお仕事での収入と障害年金で生活できるようになりました!
私はOriHimeと出会い、そこでの仕事や経験を通して人生が豊かになりました。この経験をもっと多くの人に伝えたい。特に私の地元の関西圏では、まだまだOriHimeの認知度が低いんです。まずは存在を知ってもらい、ゆくゆくはOriHimeを導入してもらえたら嬉しいですね。パイロットが働ける場所を増やしていけたらと思っています。
私の好きな言葉の一つに、「行雲流水」があります。空をゆく雲や川を流れる水のように、執着を持たず、物事を自然にまかせて進めるという意味です。
SMAは緩やかに進行していく病気なので、今日できていたことが1年後にはできなくなるかもしれないという思いが、常に頭の片隅にあります。過去の⾃分に執着せず、今できることを楽しむ、問題が起きたらその時に考えよう!そしてその用意をしておこう!と。 変化することを恐れず、新しいモノ・コトに積極的に触れて楽しく⽣きるのが私の⽣き⽅です。
ふふふっと朗らかに笑いながら大好きな趣味や仕事の話をしてくれたいずみさん。長年抱いてきた「経済的自立」という目標に一歩ずつ着実に近づき、昨年見事に達成! その原動力は、「変化を恐れずトライ&アップデートしたい」という強い挑戦心と柔軟な姿勢にありました。
▼次回予告
次回、第3弾は仕事のみならず「推し活」にも熱心な、まやさん のインタビューをお届けします!
もともとコミュニケーションに苦手意識があり、ネガティブ思考だったマインドが変わるきっかけになったのは、吉藤オリィさんのSNSで、分身ロボットカフェのパイロット(操縦者)募集の告知を偶然見かけたことでした。たまたまタイムラインに流れてきた内容を見た時、ビビ!っと、何か運命的なものを感じたんです。
1歳の誕生日を迎えるのは難しいと医師に告げられたI型SMAのやよいさん。
両親と大好きな料理に支えられて、20歳の誕生日を迎えました。
自宅のベッドで寝たきりで、言葉を発することができないので、
視線入力装置で会話します。
何事にも前向きで、好奇心旺盛なやよいさんが、料理人になりたい、と
自らの夢を口にしたのは中学生の時でした。
ゆるぎないその夢を信じることにした母のルリ子さんとの二人三脚がスタート。
ロボットアームを使って卵を割る、混ぜることに成功。
そして今、オムライスが名物の洋食店でOriHimeを使って接客の仕事にも取り組んでいます。
必ずオムライスを作る。
やよいさんのチャレンジをご覧ください。
自分の足で一度も歩いたことはないけれど、
3Dの世界で自在に駆け回るII型SMAの奏海(かなみ)さん(中学1年生)。
小さい頃から絵を描くのが大好きでした。
手の力が弱く、早くからパソコンに出会い、いまは自在に使いこなします。
3Dでの描画もあっという間に習得しました。
そんなかなみさんが挑戦したのは、分身ロボットOriHimeを操作して、
カフェで接客の就業体験をすること。
緊張もしたけれど、初めての経験にワクワクしたと語るかなみさん。
そのチャレンジをご覧ください。
「将来どうしよう、できることはあるだろうか」と不安を感じていたふみさん。分身ロボットOriHimeと出会い、一変しました。
OriHimeを使い、最もできない仕事と思っていた接客業ができたことから、「何でもできるかも」という希望に変わりました。(詳細はビデオで)
高校生の時から車いすに。最初は車いすが嫌いだった木明さん。今では、車いすは目立つと気が付き、車いすであることを武器に行政書士として働いています。「SMAだからこそできることがある、SMAが自分の根本を作ってくれた」と語ってくれました。(詳細はビデオで)
中学生の頃から「普通に授業を受けるのが難しいな」と思い、将来について、考えるようになった腹黒兎さん。「SMAは何もできなくなる病気ではない。子どもの頃から好きだった絵を描くことは、今の自分にもできること」と語ってくれました。(詳細はビデオで)
小さい頃から服が好きで、物心ついた時には「車いすだと着にくいなあ」「こういう服が作れたらいいのに」と思っていた樋口さん。
車いすの交流会で、車いすのファッションショーを見たときに嬉しくなり、車いすのモデルやファッションデザイナーの道へ。(詳細はビデオで)
20歳の時にⅢ型SMAと診断され、その後は患者団体の本部長や、NPO法人の代表理事など務めるなど、国内外で活躍する竹田さん。58歳で治療を決断しますが、側弯のために難しいと言われます。「治療を受ける、受けないは患者が決めること。まず選択肢を示してほしい」竹田さんの病気との向き合い方やメッセージには、その先に続く未来への希望や強い思いがあります。(詳細はビデオで)
名古屋の養護学校を卒業後、就職しようにも障がいが重く、受け入れてくれる会社がなかなかありませんでした。進路指導の先生が就職のお世話をしてくださったのですが、自分自身でご飯が食べられる、トイレへ行けるという状態であれば、話を聞いてもらえるのですが、私はそれすらできません。