人生の幅を広げるために、何を選ぶかは自分自身 |
20歳の時にⅢ型SMAと診断され、その後は患者団体の本部長や、NPO法人の代表理事など務めるなど、国内外で活躍する竹田さん。58歳で治療を決断しますが、側弯のために難しいと言われます。「治療を受ける、受けないは患者が決めること。まず選択肢を示してほしい」竹田さんの病気との向き合い方やメッセージには、その先に続く未来への希望や強い思いがあります。
1歳の誕生日を迎えるのは難しいと医師に告げられたI型SMAのやよいさん。
両親と大好きな料理に支えられて、20歳の誕生日を迎えました。
自宅のベッドで寝たきりで、言葉を発することができないので、
視線入力装置で会話します。
何事にも前向きで、好奇心旺盛なやよいさんが、料理人になりたい、と
自らの夢を口にしたのは中学生の時でした。
ゆるぎないその夢を信じることにした母のルリ子さんとの二人三脚がスタート。
ロボットアームを使って卵を割る、混ぜることに成功。
そして今、オムライスが名物の洋食店でOriHimeを使って接客の仕事にも取り組んでいます。
必ずオムライスを作る。
やよいさんのチャレンジをご覧ください。
自分の足で一度も歩いたことはないけれど、
3Dの世界で自在に駆け回るII型SMAの奏海(かなみ)さん(中学1年生)。
小さい頃から絵を描くのが大好きでした。
手の力が弱く、早くからパソコンに出会い、いまは自在に使いこなします。
3Dでの描画もあっという間に習得しました。
そんなかなみさんが挑戦したのは、分身ロボットOriHimeを操作して、
カフェで接客の就業体験をすること。
緊張もしたけれど、初めての経験にワクワクしたと語るかなみさん。
そのチャレンジをご覧ください。
SMAと診断され、車いすで生活する彩夏さん。10年後に立つことを目標に、親子でリハビリテーションに取り組んでいます。車いすは目立つけれど、「自分でできることは自分でやってみたい。特別扱いはしないでほしい」と話します。(詳細はビデオで)
「将来どうしよう、できることはあるだろうか」と不安を感じていたふみさん。分身ロボットOriHimeと出会い、一変しました。
OriHimeを使い、最もできない仕事と思っていた接客業ができたことから、「何でもできるかも」という希望に変わりました。(詳細はビデオで)
高校生の時から車いすに。最初は車いすが嫌いだった木明さん。今では、車いすは目立つと気が付き、車いすであることを武器に行政書士として働いています。「SMAだからこそできることがある、SMAが自分の根本を作ってくれた」と語ってくれました。(詳細はビデオで)
中学生の頃から「普通に授業を受けるのが難しいな」と思い、将来について、考えるようになった腹黒兎さん。「SMAは何もできなくなる病気ではない。子どもの頃から好きだった絵を描くことは、今の自分にもできること」と語ってくれました。(詳細はビデオで)
小さい頃から服が好きで、物心ついた時には「車いすだと着にくいなあ」「こういう服が作れたらいいのに」と思っていた樋口さん。
車いすの交流会で、車いすのファッションショーを見たときに嬉しくなり、車いすのモデルやファッションデザイナーの道へ。(詳細はビデオで)
13歳のとき身体に違和感をもったというサミュエルさん。自分は閉鎖的でなかなか言えなかったけれど、「何かおかしいかもしれない」と周囲に伝えてほしいと話します。「話すのを怖がらないで。君の持つ悩みの答えがあるかもしれない、力になってくれる人がそこにいます」(詳細はビデオで)
かかりつけ医は成長期で腱が筋肉を引っ張っていて、筋肉が萎縮しているのだと言いましたが、私はそんなはずはないと言いました。私がこの病気のことを知っていたら、もっと何度もドクターのところへ行っていたでしょう。親が、子供の機能低下に気づいたときには、何か対応すべきだと思います。待っていてはいけません。(詳細はビデオで)
SMAスーツを着て生まれてきただけで、SMAは私にとってあたりまえのこと。自ら立ち上げた「ぐるりの輪」を広げ、一度きりの人生、面白おかしく生きていきたい。(詳細はビデオで)
生まれたときからSMAを持っているので、健常者になりたいですか、と聞かれることに違和感があります。それは自分にとっては、あなたは馬になりたいですかと聞かれるのと同じことです。
名古屋の養護学校を卒業後、就職しようにも障がいが重く、受け入れてくれる会社がなかなかありませんでした。進路指導の先生が就職のお世話をしてくださったのですが、自分自身でご飯が食べられる、トイレへ行けるという状態であれば、話を聞いてもらえるのですが、私はそれすらできません。