もっと叶えたい夢があるー自分の好きを貫いた3DCGアーティスト |
2歳3カ月の時、脊髄性筋萎縮症(SMA)の確定診断を受ける。現在は電動車いすで生活しながら、フリーランスの3DCGアーティストとして活動。本業の合間にはOriHimeパイロットとしての仕事も並行。「好きなことは徹底的に突き詰める」をモットーに、日々アーティストとしての研鑽を重ね、将来は大好きなディズニーや映画に関わる仕事をするのが目標。
過去を振り返ると、今の自分の価値観や3DCGアーティストとしての土台となった出来事が二つ思い浮かびます。
一つは、幼稚園の時。僕は小さい頃から手を動かして絵を描いたり工作をしたりするのが好きで、ある時、先生から「だいちくんは絵が上手だね」と褒められたんです。たしか折り紙を折って、スケッチブックに貼り付けて、そこから連想する絵を描いたような作品でした。その言葉は今もずっと心に残っていて、ものづくりを好きでい続けられている僕の原点だと思います。
もう一つは、小学校高学年の時、アメリカの人たちと交流するイベントに参加したことです。さまざまなルーツを持つ人たちと、あまり言葉が通じない中で歌やダンスでコミュニケーションを取り、まさに多様性を体感した場でした。ちょうどその頃、「自分は車椅子で、他の子と何かが違うんじゃないか……」という思いを抱き始めていたので、タイミング良くこのイベントに巡り合ったことで、自分を認めることの大切さを知り、「周りと違っていてもいいんだ」という価値観を持てたような気がします。
こうした経験から、いろんな国の人たちとコミュニケーションを取れるようになりたいと、大学では英文科に進み、英語や英語文化について学びました。CGは、趣味でやっていた動画編集の延長で18歳くらいから独学で始めたらどんどんハマっていって。そんな大学生活を送っていた頃に出逢ったのが、OriHimeでした。
最初はニュースでOriHimeの存在を知り、その後、代表のオリィさんの著書やSNSでオリィ研究所の活動を注目して追うようになりました。僕自身、大学生になってから将来自分には何ができるのかを考えていく中で、彼らがテクノロジーで社会課題を解決しようとする姿勢にとても共感を覚えました。その流れでオリィさんが主催するオンラインサロンにも参加し、直接やり取りするように。ちょうどOriHimeの常設カフェ(日本橋の分身ロボットカフェDAWN ver.β)がオープンするタイミングだったので、オリィさんから「パイロット(操縦士)やってみない?」と声をかけてもらい、挑戦することにしました。
並行して、大学在学中からSNSにCG作品を投稿していたのがきっかけで、企業からお仕事を依頼いただくようになっていました。大学卒業後に一人暮らしを始めて、そこから本格的に在宅でCGの仕事ができる環境を整え、合間にパイロットとしてカフェで接客する現在のスタイルに。制作が立て込んでいると、なかなかパイロットの仕事に入れないのですが、どちらも僕にとって大切な仕事。好きなものづくりを通して、誰かの役に立ち喜んでもらえるのは本当にうれしいし、もともといろんな人とコミュニケーションを取るのが好きなので、パイロットとしての接客も、制作で根を詰めた脳のリフレッシュにもなって楽しいです。
ありがたいことに、今は3DCGアーティストとしてCMやゲームなどいろんな仕事に携わらせてもらっています。ただ、CGの世界は奥が深く、日々技術が更新されていくので常に勉強が欠かせません。自分がどこまでできるのか暗中模索だけど、それでも僕自身の“熱しやすく冷めにくい”性格を武器に、この世界をとことん突き詰めたい。いつか大好きなディズニー作品やハリウッド映画に関わる仕事をして、エンドロールのクレジットに名前を連ねるのが目標です。また、パイロットの活動もCGと結びつけて新しい表現や働き方ができたらと思い、OriHimeを擬人化したオリジナルキャラクターを作ったり、カフェの企画として自分が作ったバーチャル映像を使った演出をさせてもらったりしています。
昨年はプライベートで初めての海外旅行にも挑戦。あらゆる人とのご縁やサポートのおかげで、念願だったアメリカのディズニーランド・リゾートとウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ本社に行くことができました。正直、SMAの僕にとって海外旅行は簡単なことではないけれど、ますますいろんな国や文化に触れたいという思いが高まりました。今は中南米に興味があり、スペイン語を勉強中。いつかマチュピチュにも行ってみたいですね。
何事も諦めずにいれば、必ず道は見つかるはず。「案ずるより産むが易し」の気持ちで、せっかくこういう身体に生まれた自分だからこその、オンリーワンの人生を目指していきたいと思っています!
これまでの人生で今でも鮮明に覚えている出来事の一つが、小学6年生の時に受けた背骨の側弯を止めるための脊椎固定手術です。「このまんまやと死んじゃうよ」――医師から言われたこの言葉は、小6の私にとってものすごく怖くて、手術前後の2カ月間、何をしていてもその言葉が頭から離れず、誰にも相談できず、夜な夜な一人で泣いていました。
生後間もなくI型SMAと診断された歌子さん。
わずかに動くようになった足先でスイッチを操作して機械を操ります。
高校卒業後、企業に就職し、自らタブレットを動かして仕事をしています。
「病気があっても自分らしく生きることを当たり前に願う」歌子さん。
お出かけが好きでさまざまなところに出かけ、
リモートスポーツ大会でOriHimeサッカーにも参加。
お父さんと一緒に演奏にも挑みます。
やりたいことがどんどん増えていきます。
ふふふっと朗らかに笑いながら大好きな趣味や仕事の話をしてくれたいずみさん。長年抱いてきた「経済的自立」という目標に一歩ずつ着実に近づき、昨年見事に達成! その原動力は、「変化を恐れずトライ&アップデートしたい」という強い挑戦心と柔軟な姿勢にありました。
もともとコミュニケーションに苦手意識があり、ネガティブ思考だったマインドが変わるきっかけになったのは、吉藤オリィさんのSNSで、分身ロボットカフェのパイロット(操縦者)募集の告知を偶然見かけたことでした。たまたまタイムラインに流れてきた内容を見た時、ビビ!っと、何か運命的なものを感じたんです。
1歳の誕生日を迎えるのは難しいと医師に告げられたI型SMAのやよいさん。
両親と大好きな料理に支えられて、20歳の誕生日を迎えました。
自宅のベッドで寝たきりで、言葉を発することができないので、
視線入力装置で会話します。
何事にも前向きで、好奇心旺盛なやよいさんが、料理人になりたい、と
自らの夢を口にしたのは中学生の時でした。
ゆるぎないその夢を信じることにした母のルリ子さんとの二人三脚がスタート。
ロボットアームを使って卵を割る、混ぜることに成功。
そして今、オムライスが名物の洋食店でOriHimeを使って接客の仕事にも取り組んでいます。
必ずオムライスを作る。
やよいさんのチャレンジをご覧ください。
自分の足で一度も歩いたことはないけれど、
3Dの世界で自在に駆け回るII型SMAの奏海(かなみ)さん(中学1年生)。
小さい頃から絵を描くのが大好きでした。
手の力が弱く、早くからパソコンに出会い、いまは自在に使いこなします。
3Dでの描画もあっという間に習得しました。
そんなかなみさんが挑戦したのは、分身ロボットOriHimeを操作して、
カフェで接客の就業体験をすること。
緊張もしたけれど、初めての経験にワクワクしたと語るかなみさん。
そのチャレンジをご覧ください。
SMAと診断され、車いすで生活する彩夏さん。10年後に立つことを目標に、親子でリハビリテーションに取り組んでいます。車いすは目立つけれど、「自分でできることは自分でやってみたい。特別扱いはしないでほしい」と話します。(詳細はビデオで)
「将来どうしよう、できることはあるだろうか」と不安を感じていたふみさん。分身ロボットOriHimeと出会い、一変しました。
OriHimeを使い、最もできない仕事と思っていた接客業ができたことから、「何でもできるかも」という希望に変わりました。(詳細はビデオで)
高校生の時から車いすに。最初は車いすが嫌いだった木明さん。今では、車いすは目立つと気が付き、車いすであることを武器に行政書士として働いています。「SMAだからこそできることがある、SMAが自分の根本を作ってくれた」と語ってくれました。(詳細はビデオで)
中学生の頃から「普通に授業を受けるのが難しいな」と思い、将来について、考えるようになった腹黒兎さん。「SMAは何もできなくなる病気ではない。子どもの頃から好きだった絵を描くことは、今の自分にもできること」と語ってくれました。(詳細はビデオで)
小さい頃から服が好きで、物心ついた時には「車いすだと着にくいなあ」「こういう服が作れたらいいのに」と思っていた樋口さん。
車いすの交流会で、車いすのファッションショーを見たときに嬉しくなり、車いすのモデルやファッションデザイナーの道へ。(詳細はビデオで)
13歳のとき身体に違和感をもったというサミュエルさん。自分は閉鎖的でなかなか言えなかったけれど、「何かおかしいかもしれない」と周囲に伝えてほしいと話します。「話すのを怖がらないで。君の持つ悩みの答えがあるかもしれない、力になってくれる人がそこにいます」(詳細はビデオで)
かかりつけ医は成長期で腱が筋肉を引っ張っていて、筋肉が萎縮しているのだと言いましたが、私はそんなはずはないと言いました。私がこの病気のことを知っていたら、もっと何度もドクターのところへ行っていたでしょう。親が、子供の機能低下に気づいたときには、何か対応すべきだと思います。待っていてはいけません。(詳細はビデオで)
20歳の時にⅢ型SMAと診断され、その後は患者団体の本部長や、NPO法人の代表理事など務めるなど、国内外で活躍する竹田さん。58歳で治療を決断しますが、側弯のために難しいと言われます。「治療を受ける、受けないは患者が決めること。まず選択肢を示してほしい」竹田さんの病気との向き合い方やメッセージには、その先に続く未来への希望や強い思いがあります。(詳細はビデオで)
SMAスーツを着て生まれてきただけで、SMAは私にとってあたりまえのこと。自ら立ち上げた「ぐるりの輪」を広げ、一度きりの人生、面白おかしく生きていきたい。(詳細はビデオで)
生まれたときからSMAを持っているので、健常者になりたいですか、と聞かれることに違和感があります。それは自分にとっては、あなたは馬になりたいですかと聞かれるのと同じことです。
名古屋の養護学校を卒業後、就職しようにも障がいが重く、受け入れてくれる会社がなかなかありませんでした。進路指導の先生が就職のお世話をしてくださったのですが、自分自身でご飯が食べられる、トイレへ行けるという状態であれば、話を聞いてもらえるのですが、私はそれすらできません。